「 車いすマラソンで夢を実現し、輝くアスリートの熱きストーリー 」

 アテネパラリンピック・車いすマラソン6位入賞  
~ オーエックスエンジニアリング所属  花岡伸和 ロングインタビュー ~

 

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Q1:スポーツ歴を教えていただけますか?
花岡選手:小学校3年生の時に、柔道をはじめました。中学時代は、特にスポーツをやっていませんでした。高校時代は3年間柔道をやりました。その後、リハビリを兼ねて高校卒業後に車いすマラソンという競技をはじめました。それから、今まで15年間続けています。
 
Q2:高校時代の柔道の思い出は?

花岡選手:高校時代は、僕は練習ではうまく出来たのですが、試合では練習とは全く違った動きになって、力を発揮できませんでした。高校時代の成績は、僕はレギュラーになれなかったのですが、チームは団体戦で大阪府3位でした。柔道は初段です。もう少しで二段を獲れたのですが、惜しくもとれなかったので、柔道に対しては、「もっと頑張っておけばよかった」という不完全燃焼の気持ちが残っています。ただ、高校時代もそうですが、昔から走るのは好きでしたし、長距離走も好きでした。

 
Q3:車いすマラソンとの出会いは?
花岡選手:昔から「車いすマラソン」という競技があることは知ってました。高校3年生の11月に事故があって、ケガをしました。高校を卒業するまでの間はずっと入院していたのですが、その時に見た車いすスポーツのパンフレットの中に「車いすマラソン」がありました。そのパンフレットを手に取った時に、腕が丸太のように太くて日焼けした車いすマラソン選手のカッコイイ写真が載っていて、「やってみたいな」と感じました。

Q4:車いすマラソンをはじめたきっかけは?
花岡選手:高校卒業後、車いすの生活がはじまり、スポーツは2年ブランクがありました。その間は、公務員試験をうけるために、専門学校に通っていました。その頃も、入院していた時に見ていた車いすマラソン選手の写真が気になっていました。そして、公務員として就職してから、車いすマラソンをはじめることにしました。実際に競技をはじめたのは1994年3月です。
 
Q5:車いすマラソンの練習をはじめた当初の感想は?
花岡選手:最初は、リハビリの一環として大阪市の障害者スポーツセンターに行っていました。その時は、パラリンピックを目指そうとか、そういう意識は無かったと思います。高校時代に柔道をやっていて筋力もあったので、自信はあったのですが、競技を続けていくにつれて、パラリンピックは次元が違って、まるで別世界のように感じていました。
 
Q6:ターニングポイントは?
花岡選手:競技をはじめてからは、仕事が終わったらスポーツセンターに行って練習する、という生活を5年間くらい続けていました。しかし、だんだんと仕事の片手間で競技をやっていることに疑問を感じはじめていました。世間では丁度シドニーパラリンピックがあって、プロとして出場している日本人選手もいましたので、「そういうプロとして車いすマラソンをする生活もあるんだな」と知りました。そして、「自分もリスクを負ってパラリンピックに挑戦しよう」と決意し、退職して大分県にあるホンダ太陽株式会社のホンダアスリートチームに所属しました。これが、パラリンピック出場へのターニングポイントです。

Q7:ホンダアスリートチームでの活動は?
花岡選手:そのチームには、2001年~2002年まで2年間在籍しました。そこは、世界中のレースに参戦できる環境でした。最初は、チームの同僚と一緒に海外レースに行っていましたが、だんだんと一人で海外を転戦できるようになりました。この時期は、精神的にも技術的にもいろいろと鍛えられましたし、経験を積んで勝つためのスキルを上げることができました。海外では、障害者も関係なく、一般人と同じように扱われていましたね。

Q8:アテネパラリンピックまでの道のりは?
花岡選手:2003年には所属していたチームを退職してフリーになり、東京の多摩に引っ越してアテネまでの1年間を過ごしました。東京に来たのは、アテネパラリンピックに向けて退路を断つというか、自分を追い込みたかったことが、大きな理由です。あとは、多摩は東京の中で、車いすマラソンの練習をしやすいところでしたし、競技場でも車いすでレースできる環境があったので、多摩を選びました。
 
Q9:アテネパラリンピック本番までの調整は?
花岡選手:代表選考のための標準記録は突破していたので、パラリンピック出場は内定していたのですが、東京に来て環境をいきなり変えたせいか、競技で結果が出ずに、タイムも落ちていました。そういう時期が半年くらい続き、9月にアテネパラリンピックが迫っていました。7月くらいまではモヤモヤしていましたが、直前の8月に北海道のレースに出てみたら、すごく良い結果が出ました。それによって、アテネに余裕を持って望むことが出来ましたね。記録については、2002年と2003年に、車いす1500メートルで日本記録を出しました。まだ、その記録は誰にも破られていません。

Q10:アテネパラリンピックに出場した時の思い出は?
花岡選手:僕にとっては、たくさんある中の1レースの感覚でアテネパラリンピックに望みました。初出場だったからだと思いますが、パラリンピックという特別な感覚はありませんでした。結果は見事に車いすマラソンで6位入賞し、日本人トップでしたので、自分でもビックリしました。
その時に、「やることをやっていれば結果はついてくるんだな」と実感できましたし、何よりもオリンピックまでの調整が間違っていなかったことを証明できたのが嬉しかったです。

 

Q11:アテネパラリンピックの後の変化はありましたか?
花岡選手:アテネから帰ってきたら、親戚が多くなったような感じでしたね(笑)。いろいろなメディアに露出が増えたので、昔の友人から連絡があったり、普段会えないような人と出会えたので、良い経験でした。

Q12:現在所属している「オーエックスエンジニアリング」との出会いは?
花岡選手:2001年にホンダアスリートチームにいた時から、オーエックスのレース用車いすに乗っていました。アテネパラリンピックの後に、フルタイムのアスリートを続けるのか、仕事をやりながらアスリートを続けるのかを悩んでいた時に、アテネでオーエックスの車いすメカニックとして来ていた社員の方に出会いました。その方にいろいろと相談したところ、オーエックスに所属させていただくことになりました。そして、2005年春からオーエックス所属選手となり、今に至ります。

Q13:オーエックスに所属してからの環境の変化は?
花岡選手:確かに仕事をさせていただいていますので、昔のようにフルタイムのアスリートではありません。練習時間も減っていますが、その分サポートしていただいているので、集中して練習出来ていると思います。今は、結婚をして子どももいるので、もう自分のことだけを考えているわけにはいきません。家族やオーエックスの方々、レース仲間などの周りの人への感謝の気持ちを持ち続けていきたいと思います。

Q14:普段のトレーニング内容は?
花岡選手:アテネパラリンピックの時には、トレーナーがついていましたので、ウエイトトレーニングはトレーナーに見てもらって、競技練習は自分で練習メニューを考えていました。当時の練習メニューは朝40キロ走って、夜はウエイトトレーニングをやる、というような内容でした。週に200キロは走っていましたね。現状では、車いすスポーツの指導者が少ないので、自分のことは自分でやるしかない環境です。今は昔に比べて練習量は減っていますが、オーエックスが開発したハンドサイクルを練習に取り入れたりするなど、工夫しています。食事については、普段の食事からバランスよく食べることと、足りない分はサプリメントで摂取しています。

Q15:車いすマラソンにかける思いは?
花岡選手:北京パラリンピックに落選してからもいろいろと考えましたが、常々「レースが全てじゃない」と思っています。納得のいく練習を積み重ねていくことが重要ですし、結果は後から付いてくると思います。今は協会のことなどいろいろなことをやりながら、レースを続けることが出来ています。そういう立場にいられることもそうですが、車いすマラソンに出会えたことで、自分自身が本当に成長できたと思います。

Q16:ジュニア育成への想いは?
花岡選手:今は、高校生と中学生の車いすマラソンをやっている子と一緒に練習をやっていて、その子たちが今年9月の「アジアユースパラゲームズ」に出場します。ジュニアの年代でもそうですが、僕らの年代でも選手間の横のつながりを増やす必要性を感じています。これからは、障害者スポーツの業界全体のことも考えて競技に取り組んでいかないと、業界自体の発展に繋がらないと思います。そういう意味で、年齢的にも僕は選手をまとめていく立場なのかなと感じています。
 
Q17:世界の車いすスポーツの現状は?
花岡選手:アメリカでは、大学の研究の一貫として障害者スポーツ選手をサポートしていたり、ヨーロッパでは医療関係のスペシャリストが障害者スポーツの中にいます。特にヨーロッパでは、ジュニア育成に力を入れていて、実際にパラリンピックでも10代の選手がメダルを取るようになってきました。しかしそうは言っても、やはりアジアなどの国に比べれば日本の競技環境は充実しているなと感じます。


Q18:今の目標は?
花岡選手:競技に関しては、来年2010年度には、ロンドンパラリンピックの選考があるので、それに合わせて調子をピークに持っていきたいと思います。あとは、多くの方に車いすスポーツを知っていただきたいですね。そして、障害を持つ子供たちが、車いす競技が出来るとか出来ないにかかわらず、車いす競技を通して、自分の得意なことを見つけてほしいなと思います。そうすれば、自分の能力に気付いて自分を伸ばしていけると思います。

Q19:若者へのメッセージ
花岡選手:人間は死ぬまでに、「自分に向いていることが何か」を見つけられれば幸せなのかなと思います。僕もまだまだ自分に向いていることを探していき、自分を模索する旅を続けていきたいと思います。あと、たまに講演会などでも質問されるのですが、事故は良いことではありませんが、僕の場合は事故があって車いすマラソンをはじめてから、自分の人生が輝きだしたと実感しています。ですから、「今どう生きていくのか」「この先どう生きていくのか」の方が、過去に起きた出来事よりも重要だと思います。
 
 
 
花岡選手、インタビューありがとうございました。

 

プロフィール

 


花岡伸和 (はなおか のぶかず)

1976年3月13日生まれ


高校時代の事故により、車いすの生活がはじまるが、1994年に車いすマラソンに出会い、人生が一転する。2001年にはパラリンピックをめざすために、本格的に競技に集中し、海外転戦を繰り返し、技術に磨きをかける。2002年にはトラック1500mの日本記録を樹立。そして、2004年に念願のアテネパラリンピックに出場し、車いすマラソン6位入賞。その活躍は多くのメディアに取り上げられ、現在でも仕事を続けながら、年間10レースに出場し、講演なども行うトップアスリート。オーエックスエンジニアリング所属。大阪府出身。
 
 
ベストタイム
フルマラソン 1時間24分56秒
ハーフマラソン 42分54秒
トラック5000m 10分19秒42
トラック1500m 2分59秒84
(日本記録)
トラック800m 1分40秒79
 

花岡選手公式ブログ

オーエックスエンジニアリングHP
 

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